濱名さおり Saori Hamana

神奈川県出身。東洋英和女学院大学人文学部社会科学科卒業。卒業後、ミュージカル『オズの魔法使い』で初舞台。サンリオピューロランドでダンサー兼シンガーを務めた後イタリアへ留学しオペラの発声を習得。G・シミオナート国際オペラコンクール第3位受賞。主な出演作にオペラ:『コジ・ファン・トゥッテ』デスピーナ、『ラ・ボエーム』ムゼッタ、『カヴァレリアルスティカーナ』ローラ等。2015年1月にシアタークリエ『クリエンターレ』に出演しオペラとミュージカルの両方の楽曲を歌う。藤原歌劇団正団員

濱名さおりストーリーズ

横浜の海の近くで二人姉妹の姉として生まれる
父は、ガス関係の会社を経営しており
母もその会社で一緒に働いていた

3歳でピアノを始める
耳が良かったのですぐに音を覚えて弾いた
先生が、事前に曲を聞かせないで、と言うほどだった
2年生の発表会ではブルクミュラーのアラベスクを弾いたが
その発表会を最後に一度ピアノをやめる
なんでも私と比べられるのが嫌だった妹がピアノをやめたのが
うらやましかった、、、のだと思う

4歳の時にバレエを習う
当時の私はよく熱を出していたらしく
心配した母が体の強い子に、とバレエを習わした
美しい音楽で踊るバレエに夢中になった

ピアノもバレエも練習は好きではなかったが
とにかく本番が好きだった
だから発表会前になると俄然頑張った

幼稚園は挨拶が「ごきげんよう」のカトリックの幼稚園へ
年長になると演じる聖劇でマリア様候補になったが
クラスで一番背の高かった子に決まりハートブレイク・・・
幼稚園で仲の良かった子がみんな私立の小学校へ行くと知り
模試を受けに行ったが、問題がテレビで出されて混乱
会場で大泣き・・・

そんなで小学校は地元の学校へ
入学式にみんなが「おはようございます」と挨拶したのをきいて
みんなどこで打ち合わせしたの?とびっくりした

小学2年のとき近所の友達に誘われ合唱団に入る
入団試験では低い声から高い声まで出たので
『君は将来歌い手になるね』
そのときの先生の言葉がずっと心の何処かに残っていた

4年生になり別のピアノの先生のところでピアノを再開
そこではソルフェージュや楽典も勉強させられた

運命の出会い!
その頃転校してきた子がピアノがとても上手で、すでに音大を目指していた
その子とは物凄い喧嘩もしたがなぜか馬が合い、よく遊んだ

5年生のときその子から宝塚の舞台を観に行かない?と誘われ
宝塚がどんなものかも全く知らずに行った
席はなんと前から2列目!オーケストラボックスの前に作られた銀橋に
宝塚のお姉さんたちがずらりと並んで、あれはドーラン匂いだったのか?
ものすごくいい匂いが漂ってきて
『ああ、ここに行ったら私の好きなことが全部できる!』
そう思った

中学生になり宝塚熱が絶好調!
例の友人と毎日宝塚談義やら宝塚愛を書いた交換日記をしたりと楽しかった
中学2年のときに初めて同じ作品を2度観る経験
それをみた母から、同じ作品を2度観るなんて理解できない、と言われた
なのでそれ以降は親に内緒で、親が起きる前に置手紙を残して宝塚を観に行った
東京宝塚劇場近くの日比谷公園でプログラムを見ながらひとり宝塚
観客はその友人
このときも耳の良さが役立ち一度観たらほとんどの曲を覚えられた

学生生活では本来なら部活をしないといけない中学だったが
習い事が多かったので逆に迷惑がかかる、と免除された

宝塚に入りたい!
そう思い始めたころ、ピアノの先生が私のソルフェージュの声を聞いて
『あなたは歌をやったらいいわ』と言い歌の先生を紹介してくれた
渡りに船だった
結局、その先生では無かったものの母の参加していた合唱団の指揮者の先生に
自宅へ来ていただき宝塚受験に必要だったコールユーブンゲンやコンコーネ
イタリア歌曲を教えてもらった
中学3年のときだった

宝塚は中学3年から高校3年までの4回だけ受験するチャンスがあると知り
宝塚を受験したいと母に話すと
神奈川県立横浜緑ヶ丘高等学校に合格したら受けてもいいわよ、と言われた
そこは学区のトップ校だった

そのときまで特に勉強はしなくても成績は悪くはなかった
しかし緑ヶ丘に入るとなるともう少し内申の点数が必要と言われ
塾に通いだし試験勉強をするようになった
結果成績爆上がり
見事合格を果たし「これで宝塚が受験できる!」と嬉しかった

高校へ行くとそこはやはり進学校だけあってみんなよく勉強していた
試験も一夜漬けでなんとかなるものでは無かった
でも「わたしは宝塚へ行くんだから」とあまり勉強しなかった

部活はもちろん帰宅部だったがクラスメイトの男子に
『うちのバンドのヴォーカルやってくれない?』
と言われ学園祭やライブハウスで歌うようになった
初めて人前で歌う経験だった

そして高校1年の3月遂に宝塚を受験!
結果は不合格
今思えば落ちて当たり前という状態だったが、当時のわたしは何を血迷ったか
「わたしを落とす宝塚なんて大っ嫌い!もう二度と観ない!」と進路変更

ずっと続けていたピアノの先生からは歌科で音大へ、と言われていたが
どうせ大学へ行くなら、と普通の大学を目指し受験勉強を開始
しかし、それまで勉強をおざなりにしてきた代償は大きく受験も失敗
周りが行くから自分も行けると思ったら大間違いだった

そんなのんきな考えは浪人中も変わらずまたもや全滅
さあどうしよう?と二次試験で受けた2校には満点で受かり
国際政治や経済を学べる大学へ進学した

進学した先は女子大
時はまだバブルの恩恵が残っていた時期
華やかな洋服を身にまとったクラスメイトを見て
「好きな服を着ていいんだ!」とファッション熱解禁
毎日色々なテイストの洋服を着て学校へ行った

7歳の七五三のとき、着物を着た自分が嬉しくて夜まで脱がず
中学の時は宝塚の男役さんにあこがれて男の子のような格好をし
高校時代は制服指定が無かったので他の学校の可愛い制服を着て行った
学校帰りに毎日横浜でウインドーショッピングをするのが大好きだった

今まで習い事で埋まっていたスケジュールは
華やかなスケジュールへと変わり楽しい日々を満喫した

週3で合コンやダンスパーティーの要員で呼ばれ
インカレサークルに入って慶応のバンドヴォーカルを努めたり
ルックスが好みだった東大生ともお付き合いした(のちに夫となるがそれは10年後)

そんな生活を続けていたある日
「何か面白くないな。ん?わたしは宝塚に入りたいと思っていたけれど、歌ったり踊ったりしたかったんだ!」と本来の望みを想い出し再びミュージカルの舞台を目指しはじめる

ところが、オーディションは書類審査すら通らない
書類が通過するためには?と考えた結果
ポップスシンガーとしてデビューさせてくれるという事務所に所属した
そこでは与えられた曲にわたしが詞を付けレコーディングをした
その後待てど暮らせど連絡が無く、事務所を訪ねたらもぬけの殻だった
騙された?倒産した?
真相はわからないまま手元には再生もできない音源だけが残った

その後わたしはアナウンサーになろう!とアナウンサー学校へ通った
先生から『君は声がいいから記事の内容より声を聞いちゃうな』と言われた
地方局なら受かるだろう、と言われたがキー局とNHKを受けて
わたしのやりたいことはアナウンサーでは無かった、と気づいた

さあ、就職はどうしよう?と思っていた時
ゼミの教授から『君は明るいから流通が向いてる』と言われ路線変更
するとびっくりするほど順調に審査がすすみ総合職として一部上場企業の内定を貰った

歌手の道も無くなりアナウンサーの道も無くなった
これから会社員になるんだな、と卒業式を待っている休み期間
大学へ一度来てほしい、との電話
忘れ物でもしたかな?と父に車で送って貰い学校へ行くと
『4年生の必修単位が一個取れておらず卒業できません』との宣告
とんだ忘れ物をした
帰りの車の中は父の哀しみでいっぱいだった

内定を貰っていた会社へは謝罪に行き
単位を落とした教授宅へは理由を聞かせてほしいと伺ったが開示の義務は無いと言われた
父から「もう就職はしなくていい!もう一年大学に行き卒業後はうちの会社で働きなさい」
と言われた
優しい父だったが、故に父が決めたことは絶対と考えていた

その一年、授業のない日は父の会社で働き、ガス関係の販売資格や設備士の資格を取った
ガスの配管設計やねじ切りも出来るようになった

そんな生活を送っていたある日、家で新聞を見ていたら
元宝塚トップだった方が劇団を立ち上げるにあたり劇団員を募集するとの広告
あの方の劇団なら!とオーディションへ行った
3年ぶりに踊って身体はバキバキだったけれど、準団員として合格を貰えた

その結果を聞いた母が
『ずっと軌道修正しようとしてきたけど、結局あなたはそこへ行ってしまうのね』
そうつぶやいた

それから劇団でレッスンの日々が始まった
週5で様々なレッスンを無償で受けさせてもらった
教えていた先生方はいわゆる日本のショービジネスの第一線で活躍されてる方だった
少しずつお仕事をさせてもらうようになった

踊るのって楽しい!歌うのって楽しい!

そんな矢先バブルが崩壊
劇団は運営が厳しくなり解散

また路頭に迷ったが、新人歌手の仮歌レコーディングやCMソング入れ
テーマパークでミュージカルに出演するなど芸能の仕事をするようになった
東宝ミュージカル「オズの魔法使い」にも出演、ドロシーは安達祐実さん
初めて観てあこがれた宝塚の舞台に2番手として立たれていた寿ひずるさんの
代役にも選ばれてイーさんにとても可愛がっていただいた
こんな日がくるなんて!

歌で仕事をするようになると、自分の声の音色が色々あることに気付き
どの声で歌ったら良いのだろう?とヴォイストレーナーの先生を紹介して貰った

初めてのレッスンでその先生は
『オペラを歌ったほうがいい。次のレッスンまでに椿姫のアリアを練習してきて』
観たことも聴いたことも無かったオペラのアリア
1週間で必死に練習した
そのアリアは20年以上経つ今でも歌い続けている
なんて奥の深い世界

もっとミュージカルの舞台に立ちたい!

その思いで始めたオペラだったが
『藤原歌劇団受けてみたら?』
先生の一言でオペラ歌手育成コースをダメもとで受験してみたらなんと合格
昼はテーマパークで歌い踊り、夜は研修所へ通い2年後藤原歌劇団の団員となった

オペラの楽曲は今まで歌ってきた曲からはけた違いに難しかった
そのために芸大出身の先生を紹介してもらいクラシックの発声を教わった
その先生の声の美しさ、生き方に感銘を受けた

先生に教えていただくと、歌えなかったところがどんどん歌えるようになった
オペラの世界に魅了されていった

先生は人生のこと、音楽のこと、たくさんのことをわたしに教えてくれ
わたしのライフモデルとなった
先生はご結婚もされお子さんもいらしたので
わたしも結婚を決断し、ミュージカルからオペラへシフトした

わたしのオペラの世界はどんどんと拡がり「世界をみてみたい!」とイタリアへ

カルチャーショック!
イタリアでは見るもの食べるもの言葉、何もかも新しいことばかり
その出会いの中から価値観が大きく変化した
イタリアでは待っていたら何事も事は運ばなかった
すべて言わなくてはならなかった
言わないとチーズ一つ買うことも切符も買えなかった
そして何よりも素晴らしかったことは、イタリアの先生のお弟子さんたちの声は
聴いているだけで心が震えるということ
その声を聴きたくて一日中他の人のレッスン室を聴いていた

同時期、夫はボストンのハーバード留学が決まりわたしも一緒にボストンへ渡った
またまたカルチャーショック!
イタリアでは綺麗にしていないと人生が良く運ばないのに対して
ボストンでは身を守るためにTシャツGパンで過ごした
歌の勉強を続けたかったわたしは何度も大西洋を行き来した

2年後、夫の帰国に伴いわたしも日本へ
帰国直前に受けたシミオナート国際オペラコンクールで3位を受賞することができた
帰国した年末、母が脳幹出血で倒れた

母の死が現実味を帯びて頭をよぎった時
母に子供を見せてあげたい!そう思った

オペラ『コジ・ファン・トゥッテ』のリハーサル中に妊娠が判明した

リハーサル中演出家ミヒャエル・ハンペ氏が
『モーツァルトはダブルミーニング!もう一つの意味を歌いなさい』
と言っていたのが印象に残り子供の名前は日本語とイタリア語で意味を成すようつけた

生まれてきた子は大仏のような顔をした大きな男の子だった
9カ月になるころにはベビーサインで意思疎通ができるようになり
2歳になる前には足し算引き算ができるようになった
絵本の読み聞かせは毎日40冊以上
息子の「教えて!教えて!」の要求に毎日へとへとだった
夫は海外出張が多く、帰宅も夜11時は当たり前

わたしが我慢すれば わたしさえ我慢すれば いいお母さんになりたい!

そんなある暑い夏の夜
ものすごい息苦しさに襲われ動悸が激しくなり怖くて救急車を呼んだ
過呼吸だった

このときから自分の内面との対話をはじめた

息子は育つにつれどんどんこだわりが強くなり
良かれと思ってしたことが裏目に出ると彼は1時間でも泣き叫んだ
ほっと一息つけるのは息子が寝ている時だけ
歌の練習なんてできなかった

そんなとき夫に海外転勤の話しがもちあがった

言語習得の早かったこのこだわりの強い息子を
ある程度の年齢になってから知らない言語の国へ連れて行くのは酷かもしれない
環境に慣らすためにもとインターナショナルの幼稚園へ通わすことにした

彼は言語習得に長けているのか英語もどんどん読み書きできるようになった
気持ちを伝えるのはしゃべるより手紙のほうがよさそうだった
4歳になるころには一人で本を読めるようになった
読み聞かせのリクエストが無くなり少し楽になった

子供を産んで良かった! 愛おしい!

そんな感情が芽生えたとともに

この子を失ったらわたしは生きていけない
もう一人子供を産まなくては!

恐れから二人目を授かった

順調だった一人目とは違い二人目は過酷な妊婦生活だった
5カ月のときに出血し緊急入院
早期破水だった

おなかの中で命が消えてしまうかもしれないという恐怖はこんなにも恐ろしいものなのか
一晩中板の上に寝かされているような感覚とともに恐怖で一睡もできなかった

意識がもうろうとしてきたとき光があふれる夢をみた
その後破水は止まった

管につながれご飯も寝たきりで食べなくてはならない絶対安静の入院が2カ月続いた
一日中見えるのは天井だけ
窓際のベッドに移った時「空が見えるってこんなにも素敵なことだったんだ」と気づいた

二人目の出産は緊急帝王切開だった
術後、傷跡を見たら「こんなに切るんだ」もっと軽く考えていた

子供が無事生まれてくるのは当たり前じゃない
命はすべて奇跡の連続なんだ
生まれてきてくれて本当にありがとう

夫の海外転勤はわたしの長期入院のため見送られ
そのうちに行かなくてよいことになった

現地の学校へ入学予定だった息子は個性的で英語もよく話せたので
インターナショナルの学校を勧められ受験し合格をいただいた

小学校で集団生活がはじまるとクラスメイトとのトラブルが増えてきた
学校からしょっちゅう呼び出しがきた
担任の先生と校長先生からカウンセリングへ行くよう勧められた

息子を育てながら「普通ではないな」と感じてはいた
かかりつけの小児科医に紹介状を書いてもらって児童精神科を受診
先生からの言葉は『いわゆる天才型アスペルガーですね』
『脳の機能の問題なので治ることはありませんし、好きなことしかできませんよ』

好きなことしかできない?
障害?

こんなに意思疎通もできて普段は穏やかで優しくて
それなのに障害?

わけがわからなかった
そんな時わたしを救った言葉は
『本人が困っていたらそれを障害というんですよ』というものだった

そうか!彼は困っていたんだ!今までの出来事が腑に落ちた

なんでもがんばれば出来ると思ってきた
出来ないのはがんばってないからだと思ってた

わたしはコミュニケーションの仕方、発達障害に関して、心の仕組み
ギフテッドの教育など色々学び始めた

その過程で

どんなことがあっても生きていればいい
できないことを頑張るんじゃなくて やりたいことを頑張る
子育ては『幸せを感じる力』『生きていく力』を教えること

そのためには親が幸せに生きること
親がやりたいことに挑戦し続ける姿を見せること

そんな想いに行きついた

わたしは今も舞台が大好きで音楽が大好き
まだまだ舞台へも挑戦の日々

この『舞台が好き』という想いは決して消えなかった
こういう想いは消えることが無い

だからこういう想いを持ったお子さんを持つ親御さんたちには
そのことを知ってほしい

そして
これからは
わたしと同じような想いのある子供たちに
わたしの学んできたことを伝えていきたいと思っています